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樋口一葉「たけくらべ」28

成事ならば薄暗き部屋のうちに誰れとて言葉をかけもせず我が顏ながむる者なしに一人氣ままの朝夕を經たや、さらば此樣の憂き事ありとも人目つつましからずば斯く迄物は思ふまじ、何時までも何時までも人形と紙雛さまとをあひ手にして飯事許りして居たらば嘸かし嬉しき事ならんを、ゑゑ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取る、最う七月十月、一年も以前へ歸りたいにと老人じみた考へをして、正太の此處にあるをも思はれず、物いひかければ悉く蹴ちらして、歸つてお呉れ正太さん、後生だから歸つてお呉れ、お前が居ると私は死んで仕舞ふであらう、物を言はれると頭痛がする、口を利くと眼がまわる、誰れも誰れも私の處へ來ては厭やなれば、お前も何卒歸つてと例に似合ぬ愛想づかし、正太は何故とも得ぞ解きがたく、烟のうちにあるやうにてお前は何うしても變てこだよ、其樣な事を言ふ筈は無いに、可怪しい人だね、と是れはいささか口惜しき思ひに、落ついて言ひながら目には氣弱の涙のうかぶを、何とて夫れに心を置くべき歸つてお呉れ、歸つてお呉れ、何時まで此處に居て呉れれば最うお友達でも何でも無い、厭やな正太さんだと憎くらしげに言はれて、夫れならば歸るよ、お邪魔さまで御座いましたとて、風呂場に加減見る母親には挨拶もせず、ふいと立つて正太は庭先よりかけ出しぬ。

   十六

 眞一文字に驅けて人中を拔けつ潜りつ、筆屋の店へをどり込めば、三五郎は何時か店をば賣仕舞ふて、腹掛のかくしへ若干金かをぢやらつかせ、弟妹引つれつつ好きな物をば何でも買への大兄樣、大愉快の最中へ正太の飛込み來しなるに、やあ正さん今お前をば探して居たのだ、己れは今日は大分の儲けがある、何か奢つて上やうかと言へば、馬鹿をいへ手前に奢つて貰ふ己れでは無いわ、默つて居ろ生意氣は吐くなと何時になく荒らい事を言つて、夫れどころでは無いとて鬱ぐに、何だ何だ喧嘩かと喰べかけのアンぱんを懷中に捻ぢ込んで、相手は誰れだ、龍華寺か長吉か、何處で始まつた廓内か鳥居前か、お祭りの時とは違ふぜ、不意でさへ無くば負けはしない、己れが承知だ先棒は振らあ、正さん膽ッ玉をしつかりして懸りねへ、と競ひかかるに、ゑゑ氣の早い奴め、喧嘩では無い、とて流石に言ひかねて口を噤めば、でもお前が大層らしく飛込んだから己れは一途に喧嘩かと思つた、