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樋口一葉「たけくらべ」27

お前何か小言を言はれたのか、大卷さんと喧嘩でもしたのでは無いか、と子供らしい事を問はれて答へは何と顏の赤むばかり、連れ立ちて團子屋の前を過ぎるに頓馬は店より聲をかけてお中が宜しう御座いますと仰山な言葉を聞くより美登利は泣きたいやうな顏つきして、正太さん一處に來ては嫌やだよと、置きざりに一人足を早めぬ。
 お酉さまへ諸共にと言ひしを道引違へて我が家の方へと美登利の急ぐに、お前一處には來て呉れないのか、何故其方へ歸つて仕舞ふ、餘りだぜと例の如く甘へてかかるを振切るやうに物言はず行けば、何の故とも知らねども正太は呆れて追ひすがり袖を止めては怪しがるに、美登利顏のみ打赤めて、何でも無い、と言ふ聲理由あり。
 寮の門をばくぐり入るに正太かねても遊びに來馴れて左のみ遠慮の家にもあらねば、跡より續いて椽先からそつと上るを、母親見るより、おお正太さん宜く來て下さつた、今朝から美登利の機嫌が惡くて皆なあぐねて困つて居ます、遊んでやつて下されと言ふに、正太は大人らしう惶りて加減が惡るいのですかと眞面目に問ふを、いいゑ、と母親怪しき笑顏をして少し經てば愈りませう、いつでも極りの我まま樣、嘸お友達とも喧嘩しませうな、眞實やり切れぬ孃さまではあるとて見かへるに、美登利はいつか小座敷に蒲團抱卷持出でて、帶と上着を脱ぎ捨てしばかり、うつ伏し臥して物をも言はず。
 正太は恐るおそる枕もとへ寄つて、美登利さん何うしたの病氣なのか心持が惡いのか全体何うしたの、と左のみは摺寄らず膝に手を置いて心ばかりを惱ますに、美登利は更に答へも無く押ゆる袖にしのび音の涕、まだ結ひこめぬ前髮の毛の濡れて見ゆるも子細ありとはしるけれど、子供心に正太は何と慰めの言葉も出ず唯ひたすらに困り入るばかり、全体何が何うしたのだらう、己れはお前に怒られる事はしもしないに、何が其樣なに腹が立つの、と覗き込んで途方にくるれば、美登利は眼を拭ふて正太さん私は怒つて居るのでは有りません。
 夫れなら何うしてと問はれれば憂き事さまざま是れは何うでも話しのほかの包ましさなれば、誰れに打明けいふ筋ならず、物言はずして自づと頬の赤うなり、さして何とは言はれねども、次第次第に心細き思ひ、すべて昨日の美登利の身に覺えなかりし思ひをまうけて物の恥かしさ言ふばかりなく、