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樋口一葉「たけくらべ」23
美登利は障子の中ながら硝子ごしに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切つた人がある、母さん切れを遣つても宜う御座んすかと尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍かしきやうに、馳せ出でて椽先の洋傘さすより早く、庭石の上を傳ふて急ぎ足に來たりぬ。
それと見るより美登利の顏は赤う成りて、何のやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動悸の早くうつを、人の見るかと背後の見られて、恐るおそる門の侍へ寄れば、信如もふつと振返りて、此れも無言に脇を流るる冷汗、跣足になりて逃げ出したき思ひなり。
平常の美登利ならば信如が難義の體を指さして、あれあれ彼の意久地なしと笑ふて笑ふて笑ひ拔いて、言ひたいままの惡まれ口、よくもお祭りの夜は正太さんに仇をするとて私たちが遊びの邪魔をさせ、罪も無い三ちやんを擲かせて、お前は高見で采配を振つてお出なされたの、さあ謝罪なさんすか、何とで御座んす、私の事を女郎女郎と長吉づらに言はせるのもお前の指圖、女郎でも宜いでは無いか、塵一本お前さんが世話には成らぬ、私には父さんもあり母さんもあり、大黒屋の旦那も姉さんもある、お前のやうな腥のお世話には能うならぬほどに餘計な女郎呼はり置いて貰ひましよ、言ふ事があらば陰のくすくすならで此處でお言ひなされ、お相手には何時でも成つて見せまする、さあ何とで御座んす、と袂を捉らへて捲しかくる勢ひ、さこそは當り難うもあるべきを、物いはず格子のかげに小隱れて、さりとて立去るでも無しに唯うぢうぢと胸とどろかすは平常の美登利のさまにては無かりき。
十三
此處は大黒屋のと思ふ時より信如は物の恐ろしく、左右を見ずして直あゆみに爲しなれども、生憎の雨、あやにくの風、鼻緒をさへに踏切りて、詮なき門下に紙縷を縷る心地、憂き事さまざまに何うも堪へられぬ思ひの有しに、飛石の足音は背より冷水をかけられるが如く、顧みねども其人と思ふに、わなわなと慄へて顏の色も變るべく、後向きに成りて猶も鼻緒に心を盡すと見せながら、半は夢中に此下駄いつまで懸りても履ける樣には成らんともせざりき。
庭なる美登利はさしのぞいて、ゑゑ不器用な彼んな手つきして何うなる物ぞ、紙縷は婆々縷、藁しべなんぞ前壺に抱かせたとて長もちのする事では無い、夫れ夫れ羽織の裾が地について泥に成るは御存じ無いか、あれ傘が轉がる、